じゃあ、本を読むことを禁止されたらどうか。出版は自由だ。お好きに意見を述べ、表現をしなさい。でも読んではいけないよ。あるいは放送が自由でも、テレビの視聴が禁止されたらどうだろう。それじゃ表現や言...

じゃあ、本を読むことを禁止されたらどうか。出版は自由だ。お好きに意見を述べ、表現をしなさい。でも読んではいけないよ。あるいは放送が自由でも、テレビの視聴が禁止されたらどうだろう。 それじゃ表現や言論が自由だって意味がない。情報を受ける自由がなければ、情報を発信する自由があったって何の役にも立たない。 授業でノートを取ることが禁止されたらどうか。好きな授業を聞きなさい。でもノートを取ってはいけないよ。あるいは本を所有することが禁止されたらどうか。本を読んでもいいが、読み返せるように所有することは禁止する。 それではいくら思想の自由があっても、まともな思想などできない。人間の記憶力は情けないほど弱い。それを補うために人は情報をとっておく。その蓄積された情報へのアクセスがなければ、幸福追求も、社会の改善もおぼつかない。表現・言論・出版・通信の自由という「情報を送る側の自由」は、情報を受け取る側の自由がなければ意味がないものだし、思想の自由は、その思想の材料となる情報の保持の自由がなければ意味がないんだよ。 だから私は、「触れた情報を取得し保持する権利」は人権だと言ってるんだ。私の主張というより、表現の自由や思想の自由からの論理的な帰結として。(そうでないと言うなら、この権利なしに表現の自由その他がどういう意義を持つのか説明してほしい。)考える日常: 「違法ダウンロード」と人権 (via toriaji)