福島県民の苦しみを知りパニックに気づく −−恐怖がピークに達した際にどうしたのですか。...

福島県民の苦しみを知りパニックに気づく −−恐怖がピークに達した際にどうしたのですか。 疎開先を探し、北海道の田舎に移り住もうとしました。引っ越しの準備を始めようとした矢先、私の狂乱ぶりを心配した現実での友人たちが何人も「やめなさい」と忠告をしてくれました。仕事に支障が来たすし、私が常軌を逸していたことを指摘してくれました。しかし同じ放射能パニックに陥っていたネット上だけの知人達からは「疎開決定おめでとう」コールが殺到しました。 生活や収入のことを考え、東京にとどまることにしました。当時住んでいた所は、池袋のそばで、家賃は高いのに住環境が悪く、まともに太陽を見ることもできない所でした。多摩に引っ越しましたが、緑がいっぱいで、空も良く見えます。家賃は安くなったのに、部屋の間取りが広くなり、清潔さも増しました。これで私の心は一息つくことができたのです。とはいえ放射能ノイローゼはそのまま。食生活に気を使いながら、相変わらず毎日、ネットで情報取集していました。 −−そこから、なぜ変わることができたのですか。 少しずつ変化をしました。疎開を止めたころから考え直したり、しっかりした人の本を読んだり、行動が少しずつ変わったのです。そして友人である福島出身の若い男性が「福島から来た」というだけで、ひどい差別とイジメを受けたことを聞きました。彼は私の前で泣きました。それを見て、私は大きな間違いを犯していたことに気が付いたのです。私は被災者のことは考えずに自己中心的な思いだけで「放射能」を捉えていたのだと理解したのです。 私のノイローゼが悪化したのは、自分の生活や、心の問題があったためです。落ち着き始めると、それに気づきました。東日本大震災から私の生活は悪化しました。私は自営業をやっていますが震災自粛ムードで、仕事が減りました。そして震災や原発事故のテレビ映像にばかり関心を向けて、何もできなくなってしまったのです。 すると、あらゆることにやる気を失いました。どうせあがいても、放射能で東北と関東は壊滅する、もう未来はないと思い込みました。絶望感でいっぱいでした。ところが同時に、同時は正直に言うと、うれしい気持ちもあったのです。「放射能と地震で、私の苦しみが解放される」という矛盾する気持ちも、わいてきたのです。 −−「苦しみからの解放」とはどのようなことでしょうか。 私は44歳です。数年前から幾つかの大きな壁に直面して、困惑していました。まず自分の年齢により、容姿とスタイルが明らかに劣化しています。「おばさん」として社会から扱われ、自分もそう見ている。この現実が受け入れられませんでした。 そして仕事の問題がありました。大きなことをして世間をアッと言わせたい。長年そんな願望がありました。けれども、何もできていません。他にも子育てや人間関係など悩みは一杯ありましたが、どれも解決の見通しは立っていませんでした。自信を喪失していました。「心に大きな穴」というか、絶望めいたものがあったのです。 そんなときに、放射能問題によって、すべてがリセットされて、一から人生をやり直すことができるのではないかという思いが起こったのです。破壊の中に救いを求める気持ちです。私が震災情報に夢中になったのは、それが刺激的で、これまでの人生の悩みを忘れる事ができるほどのものであったためです。放射能パニックからの生還=ある主婦の体験から — 自らの差別意識に気づいたことが覚醒の契機に: Global Energy Policy Research